トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第394号 


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もちださんの鎌倉リポート No.394(2021年5月5日)



No.393
No.395



大休語録・2



北条宗政の火葬記事
 「語録」には前述のほか、建長寺の無学祖元(1226-1286)、その同行として来日した禅興寺の鏡堂覚円(1244-1306)といった著名人によせた詩偈などもある。弟子では、寿福寺をついだ嶮崖巧安(1252-1331)や、湘南深草に大休名義で大慶寺をひらいた秋澗道泉(1262-1323)らの名もみえる。檀家では、時宗のまだ幼い世継ぎ、ティーンズになったばかりの左馬頭(北条貞時1272-1311)を励まし讃えた詩も。京都に赴任した「松窓居士」なる人物は、1277六波羅探題に任じられた北条時村(1242-1305。政村の子)のことだろうか。弟の政長(1250-1301)とみられる「駿河守」は、大休の師匠にあたる石渓心月の掛軸にまで賛を請うており、一家で帰依していたようだ。九州に赴任した「民部六郎」は異国征伐大将軍となった陸奥六郎金沢実政(1249-1302)とみられ、母は政村娘。執権時宗の同母弟である武蔵守(北条宗政1253-1281)の妻も、時村らの妹だ。

 その北条宗政や、蘭渓同行の弟子・浄妙寺の龍江応宣(?-?)、東巌慧安(後述)などの葬式には秉炬、すなわち火葬の火を投じる役もひきうけている。「百十城に徧歴するを須(もち)いず、大火聚の中に勝熱に参ぜよ」というのは、遍歴修行にでた善財童子が「勝熱」という行者に、悟りのため火中に飛び込めるか、と迫られる華厳経の一場面を想起しながら、早世した宗政の成仏を願ったものだ。この宗政の菩提寺として建てられたのが浄智寺。



浄智寺。江戸期の鉄牛禅師は、大休の像とここで対面した
 また「大小仏事」の項には、「護法の愚仁長老」「資福の紹規長老」なる人物に、伝法衣を授けた記述がある。まず愚仁長老についてしらべてみると、この人は尼五山の第四位、荏柄天神ちかくにあった護法寺(廃寺)を創建した尼、つまり女性であったようだ。たぶん霜月騒動1285に連座した有力武士の縁者であって、得度し寺をたてたあと、名のある高僧(大休)に参禅し、あとから付法の弟子という肩書きを得たのであろう。

 「延宝伝燈録」には「相州護法寺の尼愚仁禅師。早くに愛網を割き祝髪稟具す」とあるだけで、具体的な理由は書かれていない。無学にも参禅し、「水牯牛」の公案に「三十七」と答えているから、だいたいの年齢はうかがえる。ただ無学はまもなく没したため、まったくの初心者であった彼女には認可をあたえる余裕がなかった。ちなみに水牯牛(水牛)とは、理性では調教しがたい自我のうちの本能、といったいみだ。「仏光録」(無学の語録)には底抜けの井戸でしられる「千代能(金沢顕時室)」らしき名もみえるから、武家の奥方が教えを請うことも少なくなかったらしい。

 いっぽうの紹規長老については、いまの山形県米沢市の北郊・高畠町に資福寺をたてた僧であるらしい。「信士道悟資秀」なる者が開山堂に大休の画像を安置したといい、あるいはこれが紹規の俗名なのかもしれない。資福寺は後世、米沢城に依った伊達政宗がまなび、仙台城下に移したため、「政宗勉学の寺」「仙台のあじさい寺」などとして、今日につたわる。開基は鎌倉武士、大江広元の曾孫にあたる長井時秀(法名・西規)で、妻は安達泰盛の妹。同系の名や法名をもつ開山の紹規も、おそらく霜月騒動になんらかの連座をした、時秀の縁者であろう。それゆえに大休は付法の弟子という身柄証明を与えるにあたり、「半夜黄梅密かに授くる処、争ひの端なりや禍ひの根。寿山覿面に親(みづか)ら分付すること、自づから恩を知り報恩を解するに有り」などとおもわせぶりな語を添えた・・・。



仏堂「曇華殿」より奥、浄智寺旧塔頭跡地は現在ほとんどが私有地(GoogleMap)
 資福寺はそののち、大休の弟子で出羽出身の鉄庵道生(1262-1331)が派遣され、鉄庵はさらに博多聖福寺・京都建仁寺・鎌倉万寿寺・寿福寺などに出世している。その弟子の無涯仁浩(1294-1359)もエリート僧で、入元し肥後能仁寺・鎌倉東勝寺・京都建仁寺を歴任。こうした本格的な高僧を輩出し、出羽における仏源(大休)派の拠点として発展、真偽は不明ながら関東十刹になったとの伝えもあるらしい。資福寺の古鐘1296は旧地付近の小堂に戦後まで残っていたそうで、「実物そっくりに改鋳し、金塊を抽出しよう」と思いついた無知な和尚によって鋳潰されてしまったという。

 「聖海の東岩安公の為に秉炬す」という記事は、帰国直前の兀庵普寧から秘密の付法を得たという東巌慧安(1225-1277)という僧の葬式に関する記述。東巌は京都にひらいた正伝寺を比叡山の反発で破却され、鎌倉の大休を頼って安達泰盛の帰依を得、和賀江に福光山聖海寺を開いたという。現・光明寺があるあたりであろうが、寺跡は判然としない。「本朝高僧伝」には「大休念公を寿福寺に訪ふ。念公、榻を下りて待遇す。奥州太守平泰盛(ママ)、聖海寺を剏めてこれに請ず。住職すること数禩、大いに玄徒に接す」とあるだけだ。

 安達泰盛(1231-1285)は死の三年前に陸奥守に任じられ、大休が寿福寺にいた時期と一致するが、慧安の没年とは任官時期が齟齬する。安達泰盛は周知のように霜月騒動で粛清されたのち、しばらくは罪人として扱われ、委細の記述すら憚られる時期がつづいた。聖海寺のその後の影が薄いのも、たぶん安達氏とともに亡んだからかも。大休が兀庵派の南州宏海(1237?-1303)に浄智寺開山をゆずろうとしたのも、これに関係があるのだろうか。「五山記」には浄智開山を大休とするが、なぜか仏源(大休)派の塔頭はみあたらない。故宗政は無学にも参じたから、高峰顕日以下、仏国派の塔頭が大多数であっていいのだが、大休と同門(石渓心月下)で大慶寺の住職にもなった無象静照(1234-1306)の常盤・真際精舎が、後世になってようやく移転してきたていどだ。また浄智寺にはのちに蘭渓派の重鎮・桑田道海や渡来僧の竺仙梵僊、別伝妙胤などもはいっており、各派オムニバス(乗り合い)の様相を呈しているのは官寺の常であるとしても、開山ばかりか準開山の影も薄く、南州宏海の伝記が乏しいこともあって、兀庵派と宗政との接点も判然としない。兀庵本人ははやくに帰国しており、文通はあったものの浄智寺建立のことなど知る由もなかった(1276没)。



曇華殿の後ろ戸にある金則殿の観音
 浄智寺外門の「宝所在近」の文字は、仏国(無学祖元)とも仏源(大休)ともいう。仏殿にかかる「曇華殿」の額は、無学の語録にみえる。また大休語録の「浄智寺に山門の額を挂く」などによれば、いまはなき山門には「解脱」という額があったようだ。ほかにも「巨福山の額を挂く」「建長拈花堂の額を挂く」「寿福に三仏殿の額を挂く」「寿福に栴檀林の額を挂く」「円覚寺の為に選仏場の額を挂く」「円覚寺の為に正法眼堂の額を挂く」などの記事があり、百貫点で有名な「巨福山」の額も、一時は大休の筆だった可能性がある。

 このような仏事記事から、いまでは失われた廃寺や廃堂の名がうかがわれもする。「禅興に新たに達磨百丈臨済の祖堂を立つ」「法源寺に聖僧を安んじ奉る」「明因寺の為に祖堂に牌位を入る」・・・。「蔵六庵に薬師観音地蔵、各千尊を安んじ奉る」には「観音菩薩を慶懺(*完成祝い)せし願文」があるから、少なくとも1000体は完成していたらしい。建長寺には千体地蔵の残欠がいまものこっていて、中世の「建長寺碑文」によれば、もともと仏殿には中尊の左右に千体地蔵をひな壇にならべ「佉羅陀山(地蔵浄土)」をジオラマ状に象っていたとされる。残欠はのちに心平寺に移され、「カラダセン地蔵」とよばれたらしい。

 「蔵六庵は芥子の大きさの如くにして、一芥の中に於いて法界を含む。・・・我れ今此の庵に道場を闡(ひら)き、十方仏土悉く現前す。・・・工に命じて慈容を彩塑し、帰命懺悔し以て供養す。惟れ願はくは智月心水に印し、・・・我が億劫の顛倒せる想ひを消し、我が余生の大安楽を賜ひ、一々の根塵倶に逈脱せしめ、了々の見聞に障礙無からしめんことを」。



寿福寺の洞門。裏側には「やぐら」、悟本庵跡は右側(GoogleMap)
 蔵六庵は隠逸をたのしむために開いたのだから、このような派手な仏事は無用なことだったはず。そもそも願文中の主語(我)は、代筆者(大休)ではなく願主である「発願者」をさすのだろうから、こうした仏事は、おそらく時宗ら檀家方の有り難迷惑な企画だったのかもしれない。それにしても、「億劫の顛倒せる想ひ」とはなんだろう。薬師・観音・地蔵という構成からみて、多くのひとが死傷し困窮した戦争であろうことは、まずあらそえない。時宗なら元寇、貞時なら霜月騒動・・・。人心をしずめるための犠牲者供養であるならば、大休としても拒否しにくい申し出であったろう。

 当時の日本人は、不十分ではあったかも知れないが、渡来僧を理解しようとした。「説法は唐音を改めず」「和音は者也之乎(*なりけりべけんや=文字通り)に通ずること弗し」といっていた渡来僧としても、帰化順応しようと努力し、日本の暦をもちい、檀家・北条氏の立場を正しく忖度し、日本の天皇に忠節をつくす賢臣であるかのように描きだすなどし、そうした語録を故国にもきちんと伝えていた形跡がある。唐土の名僧がそれを読んで序文を加えたり、唐土において独自に刊行された版本が残るのも、一時的にせよ相互理解にもとづく深い交流があった実態を伝えている。

 やがて唐土においては多くの記録が湮滅され、元・明に渡った留学僧が一方的に拉致抑留される時代がくる。正確な情報を憎悪によって遮断・拒絶し、当時の日本と邪馬台国とを混同するかのような、痴呆の坩堝にまで退化していった。近年の中国人研究者は、当時の渡来僧があたかも「中国から価値のあるものを遅れた日本に伝えた」かのように説きたがるが、それはとんだ心得違いというもので、むしろうぬの先祖が「海外から何も学べなかった」底無しの愚かさを嬉々として自白しているにすぎず、いまなお自国中心主義のこっけいな自慰癖を白昼堂々、公然と実演してみせているに等しい。渡来僧の語録から学ぶべきことは、たぶんそんなことではないはずだ。



パソコンによる復顔術。大慶寺の像などとはかなり印象がちがう
 禅僧の語には反語逆説がおおく、唐土往古の名僧にいたっては毒舌・悪態もめだつ。弟子が鋭いことばで悟りを示すと、「ぬうう、憎いやつめ」と棒でバンバン撲ったりする。禅問答とは悪辣(意地悪)な手をつかってでも未熟な相手の我見(思い込み)を否定することだから、ここでは逆に師匠から「一本とり」、見事に鼻を明かした弟子を妬み、むしろ率直に褒めているわけだ。このような気心をゆるした以心伝心のさまは、なかなか日本には伝わらなかった。鎌倉時代の武士は禅はおろか、ほとんどが初心者だったことを、忘れるわけにはいかない。

 ふつう自我を否定されれば、相手(檀家)は怒ってしまう。「良い警官・悪い警官」の喩えがあるように、厳しい指導は兀庵とか無学など、南宋一といわれる無準門下の、一流の権威を身にまとった老師が担当する一方、禅をひろめるためには相手を持ち上げ、励ます役割の、比較的温厚な高僧も必要になってくる。後者は禅の修業にとって、一見手ぬるい指導のようにもみえる。兀庵のように、初対面でいきなり権力者時頼を叱責し、拳で三発もどついたりするほうが、鬼面ひとを驚ろかし、禅僧としてさぞかし峻厳で立派にみえるかもしれない。しかしそのことで、後者の僧の人格や功績を軽視するのは筋違いというものだろう。大休は南宋の都杭州の南、温州の出身。まず蘇州万寿寺で曹洞禅をならい、五山の名僧・石渓心月(?-1255)に臨済宗松源派の禅を印可された。石渓はかの無学も、師の無準(破庵派)没後に参禅したほどの高僧。現代の研究者なんぞが一知半解をふりまわし、安易に批評できる筋合いのものではない。没後10年目にして来日した一山一寧(1247-1317)は、大休の画軸に次の賛を寄せた。「三四処」とは十二処(六根六境)、心のはたらく場所といった意味。

○ 心は絃の如く直にして、性は火於(より)も急なり。
 天池滴水を以て東海の濤瀾を助翻し、楞厳三昧を守り平時の功課に勤修す。
 三四の処に人と為り全提し、一平生を清坐して臥せず、
 仏法に身心を微とすと雖も、大いに師僧に殃禍を作す。
 末後は瑞鹿峯前に、煒然として因を収め果を結ぶ。
 本より形相は描貌すべき無く、今は虚空を把んで強(あなが)ちに彩画す。
 亀谷山前の六を蔵む処、伝芳続きて英賢の者有り。



独特の異体字も多い
 「老病に摧け残りて已に七旬(*70歳)、縛茆(*草庵)に待ち尽くす囂氛の絶つを。心は猶ほ湛水に明月の印するがごとく、身は長空に暮雲の帰するが若し。・・・」(蔵六庵帰雲の扁に題す)。「一日閑を得て一日を過ごし、了へて余事も思惟すべきも無し。眼開きても眼合はせても渾(す)べて夢の如し、待ち取らん根に帰り葉落つる時を」(病中に作有り・三)。

 死を思う詩が多いのは、たまたま晩年の草稿が焼き棄てられずにのこったためなのだろう。威厳をしめす立場柄、多くの禅僧は、「仏祖賛」(仏画や名僧の頂相に副えた讃辞)とか「頌古」(掛軸にしたためた禅語)などといった公式な詩偈しか遺したがらなかった。日々書きつづった、だれに見せるともない「述懐」、迷う心、弱い気持を隠すことなく表したようなものは、意外と少ないのだ。しかし立派な禅語だけが詩だろうか。・・・以下の詩、4句目の「狐首丘」というのは狐が死ぬ時、本能的に必ず巣穴の方向に頭をむけてしまうという、「礼記」かなんかの故事。

 二十年間東海に遊び、 幾たびか夢蝶に随ひ滄洲を過ぐ。
 佗山(*他国)に亀蔵の地を卜すと雖も、 故国に寧んぞ狐首の丘を忘れん。
 万事此の生に心已(すで)に足れり、 百骸未だ散らずして意(おもひ)は先づ休む。
 情を尽くし分付せんにも何有ること無く、 雲自づから高く飛んで水自づから流る。
(坐中に故国を懐かしみ、感有りて作る)


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